鳥取砂丘の歴史 |
鳥取砂丘☆歴史 |
鳥取砂丘の歴史ここでは、鳥取砂丘誕生の歴史についてみていただきたいと思います。 どのようにして、あのような広大な砂丘ができあがったのでしょうか・・・ 鳥取砂丘に秘められた自然の歴史をひもといてみましょう。 |
■ 砂丘は生きている?・・・鳥取から丸山三叉路を経て覚寺の 山道を通る古くからの街道があります。 岩山を削り込んだ深い切り通しを過ぎると、急に目の前が開け、 陽を受けて燻銀のように光る灰褐色の鳥取砂丘が視界に入ります。 その向こうには紺碧の日本海。そして、手前に見える深い緑の池は なんとなく薄気味悪く感じるかもしれません。この池が、「お種伝説」 がある多鯰ケ池です。 ここからの風景はまさに絵に描いたようでもありますが、日本海と 砂丘、砂丘と多鯰ケ池という配列は、決して偶然ではなく、むしろ 砂丘のおいたちに深く関連した配置であります。砂丘は、海に「堆積 した砂が陸に打ち上げられて成長し、多鯰ケ池はかつての日本海の 置き土産となったものなのです。砂丘は、長い時間の所産であり、 人間の歴史とも重なり合う栄枯盛衰の歴史が秘められています。 ■ 中国山地から運ばれた砂丘の砂・・・中国地方には花崗岩が 広く分布し、その花崗岩を構成する石英や雲母、長石などの鉱物 が砂丘の砂の原料となります。花崗岩の風化したマサ土からこれら の鉱物が容易に分離し、わずかに含まれる鉄分が、古墳時代から 明治時代まで砂鉄として採集されてきました。そして大量の砂が 「かんな流し」によって流されてきました。自然にできた砂と「かんな 流し」で流された砂は、両方とも千代川などの河川によって日本海に 運ばれました。河口から海に出た砂は沿岸流に乗り海底に広がり、 やがて砂丘海岸に到達します。そして地表に現れた砂は陸に向かう 強い風により、内陸に運ばれて砂丘を作っていきました。砂丘の砂 は、長い時間をかけた移動の過程で粒度がそろいます。砂丘の砂 のサイズは1ミリ以下で8分の1程度です。 ■ 起伏の多い変化に富んだ鳥取砂丘・・・鳥取砂丘を訪れた 方が驚かされるのは砂丘の起伏です。砂は風に押し上げられて 丘を作り、また削り取られ絶えず移動を繰り返します。そして、高く 積みあがった砂は風下側で崩れて急斜面を形成したりします。 ■ 三日月を連ねた起伏バルハンはなぜできる?・・・バルハン とは風によって成長する砂の山が、風下側で一定の傾斜を支え きれなくなり、斜面が崩落してできる半月状の地形です。鳥取では 一般的にスリバチと呼ばれていますが、スリバチの地形は他の 原因で形成される事もあり、一概に同じとは言えないという人も います。ちなみに斜面が崩落し始める角度を安息角といい、 一般的には30度前後となります。 ■ 風と砂が決める砂丘列の並び方・・・砂丘は普通、列を成し、 海岸線に沿って平行に、つまり風向きに直行してできることが多い です。このような砂丘を横列砂丘といい、風向きに平行し海岸線に 直行する砂丘列を縦列砂丘といいます。風が運ぶ砂が多いと、バル ハンとバルハンの間が連続して横列型の砂丘列に平行します。しか し、風ばかりが強くて運ばれる砂の量が少ないと、さらにそこの砂が 削り取られ、縦に砂丘列が発達します。鳥取砂丘は海岸線に平行 した横列砂丘が2列ないし3列になってできています。 ■ 巨大なスリバチの生成に関する謎・・・鳥取砂丘の「名所」であ る追後(おいご)スリバチや合せヶ谷スリバチは、アリジゴクの巣の ような大きな凹地です。どちらもバルハンの一種で鳥取地方ではス リバチと呼ばれています。生成についてはまだ不明な点が多いです が、後からできた砂丘が先にできていた砂丘に追いついてできた とも、底にあった湧水が砂を流し去ってできたとも、諸説言われてい るようです。 |
|||||
|
Copyright(C) 鳥取砂丘にきなんせ All Rights Reserved |